2014年11月30日日曜日

子どもの楽園

逝きし世の面影という本に魅了されている。

江戸末期から明治初期にかけて日本を訪れた外国人の手記を比較検討し、カテゴリーごとにわけそれぞれの観察者の視点から当時の日本人の生活、姿を映し出そうとしている書籍である。

有名な本らしくおそらく読まれた方も見えるだろう。

今日目を通した章の特に第十章「子どもの楽園」は色々考えさせられる内容だった。
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当時の日本のおかれていた「封建社会」と呼ばれる社会構造の中では、
下層の住民は上層の住民に隷属され搾取され苦しんでいるかのように語られることが多く、また西洋における封建社会においては全くその如くだったのだろうと思う。

ところが、封建社会を革命によって打ち破り民主国家を作ったと言われるフランス人の手記もこの中に含まれ、他イギリス人、ドイツ人、ロシア人、様々な手記が引用されるのだが、いずれも日本の農民および一般の民衆が非常に「自由」であり、大凡下層とは思えないほどに自らの社会のことに関して自主的に統治する権限が認められており、その決定方法はいたって「民主的」であることに驚いている。またどの顔も楽しそうであり無邪気であり幸福に満ちていると記している。そして彼らはその現実を目の当たりにしに少なからず驚きを表している。彼らの知るヨーロッパ的な封建社会の実情とは随分異なるからだ。

他の章になるがむしろ武士の上層階級の方が堅苦しい規律などに縛られて不自由にみえると言うのであるから面白い。
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さて子どもに関してである。
とにかく日本の社会は子どもを溺愛していると記している。それが下層の子どもであってもとても大事にされているという。
どの階層においても子どもを自由に遊ばせ路上を裸では走らせるままにしており、どれだけやんちゃを働いても叱責するようすが見られないという。彼らほど愉快で楽しそうな子どもはヨーロッパにはいないとまで言っている。

ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは「我々の間では普通鞭で打って子どもを懲罰する。日本においてそういうことは滅多に行われない。ただ言葉によって譴責するだけである」と言っている。

また子どもが転んで痛くしたとか、私たちがバタバタと馬を駆って来たときに怖くて泣くとか言う以外には、子どもの泣く声を聞いたことがなかった」とドイツの外交官オイレンブルクが記している。

子どもは親の言いつけを聞かず泣きわめくような習慣はなかったらしい。

一方で日本の子どもは甘やかされてはいるが、フランスの庶民の子どもより良くしつけられているとも書かれている。

英国外交官フレイザーの夫人は「彼らに注がれる愛情は、ただただ暖かさと平和で彼らを包み込み、その性格の悪いところを抑え、あらゆる良いところをのばすように思われる。日本の子どもは決しておびえからウソを言ったり過ちを隠したりはしません。青天白日の如く、嬉しいことも悲しいことも隠さず父や母に話し、一緒に喜んだり癒してもらったりするのです」と書いている。

つづけて、
「分別がつくと見なされる年になると、いずこも六才から十才の間ですが、彼は自ら進んで主君としての位を退き、ただ一日のうちに大人になってしまうのです。」

とも書いている。
町には子どもがあふれており、その殆どは弟や妹を背負っているとかかれており、おそらく子だくさんな家庭の中で兄や姉が母親の代わりに子どもの面倒を見ることが当たり前だったのだろうと容易に想像できる。
自ずから当たり前のように家庭の中での役割を担っていったのだろうと思われる。
農家であれば子どもも仕事にかり出されるわけで、当たり前のように己のできる仕事を自主的にこなしていたのだろう。
礼儀礼節も他行動規範なども親のするのを真似て自然に身につけていったのだろうと思われる。
当時の子供達はそのような環境の中で育ちいたって早熟だったのではないだろうか。

別の所には大人と子どもの分け隔てはなく、仕事も子どもと共に行うとかいてある。
これは他方現代の価値観からは少し許容しがたい部分だが、遊びも大人と同じ空間を共有するのだという。

祭りなど大人が興じて子どもと友に遊ぶ分にはほほえましい限りなのだが、タバコも吸えば大人が見るような観劇で内容が実に卑猥なものや春画まで別段子どもの目を覆うこともなく当たり前のように大人と同じように楽しんでいたのだという。

ともあれ子どもは子どもの間の争い事も年長の子どもの裁定で解決をしており大人を煩わせることはないと書かれており、これはとりもなおさず大人のする争い事の治め方を見て習い実行しているのだろう。

子供は子供達の独立した世界を持ち大人はそれに干渉しなかったと書いてある。
過干渉だと指摘される現代の親とは随分異なるように思う。
子供は子供の世界の出来事を自治の裁量で解決し、その方法を実践で習得してきたのだろう。

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はたして現在我々の子育て環境と照らし合わせてみると、子供達をのびのびと自由奔放に遊ばせていない現実に直面する。
親には親の都合があり、親も時間に追われストレスを感じ生きている中、結果として余裕が減り子どもの自由を束縛している事が多い。
また安心して子どもだけで遊ばせてやるには、不審者や交通事故など不安になる要因が少なからず存在する。どうしても過剰に管理、監視してしまいがちになる。

今の子供達は様々な自由が制限され結果、当時の日本の子供達が持ち合わせていなかったといわれる、「癇癪」に現代の日本の親はさらされることになる。

学校では小学校の一年生から授業中徘徊したり、授業を妨害したり、ウソをついたり、教師を無視するなど大凡我々の時代からも考えられなかったような事態に頭を悩ませ、家庭教育の重要性を語る。

学校での子供の揉め事に教師や親が口を出しことが大きくなることもしばしばで、子供はそこから学ぶ機会を奪われているようにも思える。

厳しく子どもを育てることが解決のように感じさせられることが少なからずあるのだが、全く自由奔放に育てられた当時の日本の子供達が、当時のヨーロッパの観察者の目から「非常に礼儀正しく行儀良く喧嘩することも叫ぶこともなく、与えられたおもちゃは帰るときには片付け何度も丁寧に礼言って帰る」という証言を読み、実際愕然としている。

大前提として当時の子供達は非常に愛されていた。自由と自治が与えられていた。
そして
大人の社会を肌で感じ大人をそのまま模倣して育った。即ち礼儀礼節を重んじた生活が大人の社会にあったからこそ、子どももその如く大人のするように手記を記した外国人達に接したのではないのだろうか。

もっとも別の章には表の通りを通る彼ら外国人を、物珍しく公衆浴場から裸のまま飛び出してくる老若男女に戸惑ったという記述もあり、甚だ礼儀や礼節から大きく逸脱した側面もあるようだが。

話を子どもと教育に戻すが、
社会環境の異なる今、全く当時と同じ状況を再度作り上げることはおそらく不可能だろう。
しかし過去に存在していた風情、風習から学ぶことは、大きく異なった社会に生きているとは言え同じ民族である我々にとって、当時の情景を思い描くともそれほど難しくなく全く文化の異なる他の国の人達が同じ事を行うよりは遙かにたやすいだろう。

愛情を限りなく与える事と、自らを律して子どもに背中を見せる生き方を自らを戒めながら実践していくこと、なのだろうが、
しかし当時の大人はそれほど気を張ることもなく、実に愉快でのんびりと楽しそうに生活していたというのだから、こればかりは甚だうらやましい限りである。


2014年11月28日金曜日

発言の順番

昨日午後一時半に抽選議運というのが開かれまして、
代表質問と一般質問の順番を決めるクジが引かれました。

私は最後から二番目
12月5日の午後1時からという事になりました。

順調に進んで何も番狂わせがなければの話ですが。

今回は
有害図書に関して
市街地の活性と津なぎさまちにかんして
それから
「動かない救急車」と言われる現状について
の3つを取り上げる予定です。

2014年11月17日月曜日

宜野湾市と嘉手納町:沖縄視察報告02

色々な理由で躊躇し投稿されないままの書きかけの記事がある。

時機を逸し続けてきたが、やはりアップしておくべきだと考えた。
先月20,21,22日に会派視察で沖縄に向かった際、県の港とは別に嘉手納町と宜野湾市に訪れた。
その時の感想を記す。

基地問題を語るなんて事は私のような一塊の市議にはとてもハードルが高く、またおこがましいこととだと思う。
しかし一点、宜野湾市の市長の言葉がずっと心にのしかかっている。
一語一句正確に覚えているわけではないので誤りがあれば申し訳ない。
「沖縄はことある事に注目される。そして色々な人が来て色々な持論を主張していく。しかし沖縄に住む人の事を考えての発言は少ない。自民党も含めて」
という内容だったと記憶している。

自分の政治主張とPRの為に沖縄を、基地問題を「使ってきた」人が多かったのではないだろうか。
私は沖縄に住む人の本当に望んでいることを知っているわけではない。持論を展開できるような立場ではない。
しかし沖縄を「使ってきた」と言われる人の顔は幾つか思い浮かぶ。

宜野湾の市民が望む安全の確保にまた新たな影が落ちたのかも知れない。市長と周辺住民の憂いが解消されることを願ってやまない。


宜野湾市
宜野湾市が要求するのは一貫して普天間基地の返還だ。町のど真ん中に位置する基地は不自然なドーナツ型の町を作り自由な横行と利便性を阻害しているという。
確かに基地の裏側にある街に行くにも一本しかない周回道路をまわっていくしか手立てがなく、多くの場所で道の拡幅も難しい状況にあった。T字路が多く恒常的な渋滞に見舞われている。

宜野湾市の人口密度は東京よりも高く、人口は増加傾向にあるらしい。にもかかわらず公民館などの住民サービス施設を建設する場所もない。

薄氷の上を渡るように慎重に進めてきてやっと積み上げた結果が、先の騒ぎで一気に崩れ去った。
問題の原点は普天間の基地をとにかく移転させなければならないという事のはずであると市長は語った。
周辺住民の安全の確保と経済的基盤整備のために基地を移転させることが何よりも重要な課題であり、いたずらに政治問題化しないで欲しいという事なのだろうと認識した。

今の移転先に問題があるというのなら他にどのような現実的な解決法があるというのか。反対を声高に主張する人達は対案を示していない。
これ以上移転が遅れるような事はしないで欲しいという。
宜野湾市の一番懸念していることは普天間基地の移転がまた何かしらの理由で頓挫し、結果基地の移転の話そのものが立ち消えしてしまう、すなわち普天間の固定化である。

(周辺住民への対応とその不満の解消は日本国政府の問題であって米軍にとっては何の関わりもない内容である。移転費用はもちろん住民との問題解決のために日本政府が拠出する。かりに国内の合意が得られずに移転が頓挫したとしても米軍としては何も困ることはない。移転先が整備されないのであればこのまま普天間に駐留し続けるだけのこと。このような思考が米軍側にあると推測する。)
基地の返還で借地料が入らなくなるのではないかとの問いには、確かに一時的に収入は減少するかも知れないが那覇に近く沖縄中部に位置するこの市が本来有るべき機能性を発揮できる町になれば町の経済にも大きく貢献するはずだという。
普天間を切っ掛けに中部にある他の基地が返還されれば沖縄の経済は変わるだろう、と答えられた。

沖縄は歴史的にも大陸との関係は深い。しかし共産党と関係が深かったという歴史は存在しない。と言われた言葉はとても印象的だった。


嘉手納町

宜野湾市とは基地への態度も町の雰囲気も全く異なっているという印象を受けた。
町の8割強が基地で占められており、ここに返還の話はない。
沖縄全体で1万1449人居る軍用地の地権者のうち4732人が嘉手納町内にすんでいる。
基地の出入り口は日中は閉鎖されており出入りは無い。
厚木や横須賀のようなイメージでアメリカ風の飲食店や軍の払い下げを扱っているミリタリーショップがならんでいる町を想像していた私の予測は見事に裏切られた。
町の端にある道の駅の4階からは滑走路を含めた基地の大部分を上から見ることが出来、双眼鏡も設置してある。テーブルには記者席が用意されていて私が行ったときにも複数のテレビ局のカメラマンが座っていた。フリーのカメラマンも居るようである。
基地渉外課の課長曰く、事故が起こったときに瞬時に対応できるようにとのことだという。
町の中には3箇所の騒音観測所が有り、70デシベルを超える騒音が5秒以上継続する回数が何回あったのか記録している。
この町は日本政府に対する爆音訴訟を起こしている町の一つだ。

また現在町側に大型の航空機の格納庫が存在する。ここが大きな騒音の原因の一つになっているのでこれを山側に移転して欲しいという要望を立てており、現在移転先に新しい倉庫を建設中だという。また移転した跡地に他の地域から別の部隊を持ってきて基地機能の拡大に繋がらないように要望を立てているらしい。

配備されている機体の中には旧型の物が含まれており、これがより騒音が大きく排ガスも多いという事でこれらの機体を新しい低騒音型のものに切り替えていく要望も立てているらしい。
課長から頂いた資料には幾つも配備されている機体が写真と共に記載されており、それぞれの機体の特質を課長は非常によく知っていた。
他基地が存在することによって引き起こされる様々な問題を日本政府や米軍に対して訴えていくことが同町基地渉外課の職務だと言う事だった。
基地は監視する対象なのである。
また嘉手納基地の前進として現在の基地の敷地の一部である1250平方メートルが旧日本軍の中飛行場として使われていた。この基地の用地も地元の地権者から強制的に摂取されたものであるとして日本政府に対して賠償を求めているという事である。
旧日本軍によって摂取された土地以外の米軍によって摂取された土地の地主が、米軍に対して同様の損害賠償を求めるような訴訟は起こされていない。
因みに軍用地は投機の対象になっているらしい。確実に日本政府から借地料が支払われる安全な物件だからだという。借地料は値上がりこそするだろうが値下がりはしないのだろう。町の中には軍用地買いますという広告看板が幾つも出ていた事を思い出す。

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沖縄はその地理的位置関係が理由で戦争末期に占領され陸上戦が繰り広げられた場所である。
硫黄島同様本土空爆の拠点にするためだ。
民間人が武装した敵兵によって殺傷された。
現在日本の主権下にある地域で同様の経験を持つ場所は他に存在しない。

大陸への攻撃に適している場所であることも考慮されたことは言うまでもない。
戦後国民党が敗走し中華人民共和国が中国共産党によって樹立され、半島ではソヴィエトから送り込まれた人間が独立政府を宣言し、他にも東南アジアにおいて共産政権が次々と興ってきた時代に米軍は沖縄に駐留し続けた。

本土への復帰は私が産まれる僅か2年前。
歴史も米軍に対する認識も感情も経験も、我々本土に住む人間とは色々と異なる。これは否定しようのない事実だ。
そして当時の理由がどうであれ、現在日本全体を比較して米軍基地の地域に占める割合は沖縄が圧倒的に多い。
日本が国防という観点で沖縄と米軍に依存している事も否定できない事実だろう。

しかし国の安全は沖縄だけが考えれば良い問題では無い。
「沖縄の基地問題」なんて言い方を目にし、耳にするがこれは適切な表現だろうか?
日本の基地問題じゃないのか?
日本の防衛問題ではないのか。


1. 日本は決して「平和な戦後69年間」を過ごしてきたわけではない。
理由は前回津市に出された請願に対する反対討論の内容をまとめたエントリーでも書いたので詳しいことはこちらにまわす。

戦後の「平和な国日本」は国全体を巻き込んだ戦闘状態に至る事態がなかっただけであり、現実には局所的に攻撃を受け、組織的に殺傷された国民が存在し、領土は奪われている。

2. 尖閣諸島に多数の「漁船」がおしよせ「漁民」が上陸したとしても沖縄に駐留する米軍がこれを排除する為に武力を行使するとはとうてい思えない。
竹島が不法占拠された時に日本はGHQによって占領されており、米軍が今以上に駐留していた。しかし抗議こそしたが島の奪還に米軍が動いた歴史は無い。

911以降の「対テロ活動」はアメリカ本土が攻撃されている!戦わねば危ないという「民意」が生み出され、支持されて実行された。あの時あの国に住んでいた。その時の空気感を今でも良く覚えている。民意が一つの方向に向かっていく中で同じ感覚を共有できないでいる「外国人」としての違和感は文字ではなかなか表現できない。

今仮に尖閣に緊急事態が発生したとしても同じようなアメリカの民意の高まりが作られるとは思えない。


即ち自分達の身は自分達で守るよりほかない。

沖縄に行って確実に分かったことは、私が沖縄の地域の状況をあまりにも知らないという事実。
だからおかれた状況を知りもしない周りの人間が一方的に沖縄の人達の考えを批難するべきではないとおもう。
口出しすべきではないといっているわけではない。
また沖縄のことなのだから沖縄の人達が自らが納得するように決めれば良いという考え方は私には容認できない。
単に沖縄を自分の生活圏から隔離した、他人事的な思考だと思う。

沖縄が直面している、米軍基地と国防の狭間のジレンマは我々日本全体の問題だ。日本全体を見て包括的に沖縄にある米軍基地の問題に対処しない限り、何時までたってもこの問題が大きく解決されることはないのではないだろうか。
我々は本土沖縄関係なしに、日本の抱える解決すべき課題として良く状況を知り有るべき姿を模索する必要があると思う。

あそこにある基地の中にいる兵士が日本人であったら、日本の自衛隊が勤めていたとしたら周辺住民の受け止め方は随分異なるのではないか、と帰路の飛行機の中で考えていた。