アポーヨ三重に行ってきた。久しぶりの多文化関連記事。

久しぶりにブログタイトルに沿った多文化共生関連記事だ。
津市の高茶屋にあるブラジル人学校、アポーヨ三重に行ってきた。

ここでは基本をポルトガル語話者の母語教育支援を行っている。

ブラジルの小学校で使っている教科書を使って小学校5年生まで教えている。合わせて乳幼児から就学前の、保育所及び幼稚園対象年齢も請負い、保育している。同時に日本語教育も行っている。
また、一般公立小学校に通っているブラジル系の児童達にも帰宅後に母語習得支援のクラスを行っている。

ともすれば在日外国人の家庭にはバイリンガルを生み出す可能性のあるアドバンテージがあると考えがちである。かくいう私もそちらにむしろ意識を於いていた。と言うのも私が渡米中に出会った日系の人たちは殆どが英語ベースの生活をしており、不十分でありながらも多少の日本語が理解でき、努力次第では結構日本語がしゃべれる人たち、と言うケースが殆どだったからだ。

しかし現実はダブルリミテッドの問題の方が比率が高いらしい。
つまり日本語も中途半端、母語も中途半端、というケースだ。

当然このような状態では日本で高等教育を終了することは出来ない。安定した収入を確保する職業に就くことも難しいかも知れない。(日本語のレベルにもよりけりだが)
そして中には「ブラジルに帰ってしまえ!」という日本人もいるようなのだが、そうも行かないのである。 ブラジルでも学歴社会が確立されているようで、ブラジルで高等教育を終了しない限り就職先は随分限定されてしまう。しかも格差は日本よりも激しく技能も学歴も無い人たちの就職の可能性はほとんど無いらしい。

結果ダブルリミテッドの殆どは日本に帰ってくるのだそうだ。

ここには実は親の認識に大きな問題があるのだという。
1世達がいずれはブラジルに帰るという意識でいることだ。だから子供達もいずれブラジルに帰る、はずだ。という考えに流される。だから日本語を習得させることにあまり意識を持っていない。というのだ。おそらく結果的に滞在が長期化し(本国での就職が難しいことに直面し)気が付いたら子供の学校で進学の問題が出てきた、と言ったところだろうか。進学を目の前にして日本語能力に不足があってももう遅い。ましてや日本語の理解が限定的であれば他の学科の理解も低くなる。付け焼き刃ではどうにもならない。

アポーヨ三重では進学指導もしているそうなのだが出席率は非常に低く、呼びに行かないと出てこない人たち多いのだとか。

親が進学の意識が低くければ、当然子供もその認識を受け継ぐ。結果当人達は修学・進学にも意識が低くい。

バイリンガルは環境だけで出来上がるものではない。最終的には当人の習得意欲無くしてありえない。基礎(可能性)は持っていてもトレーニング無しで身につけられるものなんか一つもないのだ。つまり初期段階に於いて当人は周りの学友よりも多くの努力を強いられるのである。
それを不虞だと考えるのか、アドバンテージと捉えるのか、当人の考え方次第だ。というか親の考え方と言うべきか。


そこで何が起こるのか。

日本でもブラジルでも就職できない低能力者が日本にあふれる事になる。

日本の今までの発展と治安の良さ(随分治安も悪くなったが、それでも外国のケースに比べればまだまだ安全な国であることも事実)と日本の就学率の高さとは無関係ではない。

ブラジル人ではないが私が知っているダブルリミテッドのケースを紹介する。
中学の時に親の転勤で渡米。当時英語の能力は皆無。結果学校でいじめられ引きこもる。日本語は中学当時のレベルで成長が止まり、英語は引きこもった関係でかなり習得が遅れヘタ。もちろん日本語よりはましだが。頭は悪くないのに転校当時のいじめのトラウマから日本への執着が強く、帰国を希望しながらも、日本人留学生達とのやりとりの中で自分の日本語の表現に難があることを感じ取っており日本での生活が不可能であることを知っておりジレンマに落ち込んでいる。一方で弟二人は転校当時にまだ小さく英語習得もいくらか兄より早く、スムーズに環境に適応。日本語は英語と混合でバイリンガルでないと分からないような日本語だが英語基準の生活に完全シフトする。大学にも進学し優秀な成績を収めていた。結果家庭内でも兄は「出来ない子」のレッテルを貼られ、親やアメリカ社会への不満が募り道を踏み外していく。麻薬に手を出して逮捕され、就職も難しくなった。

彼の場合は一人だ。周りに彼と境遇を同じくする仲間はいなかった。だからこそ不幸だったのかも知れない。

しかし日本にいるブラジル系のダブルリミテッドには仲間がいる。状況を是正する力も働くかも知れないが、往々にして増幅されるのは共通する境遇への不満。社会に対する不満を持つ特定の集団が出来上がることは決して日本の社会に良い結果を生み出さない。不満が経済的不虞と融合した後、些細な亀裂が入ることで堤は一気に破綻する。暴動という形での破綻も考えられる。中国や英国など各国で起こる暴動は差別待遇と平行して経済的日々の不満が往々にして絡み合っている。

私は多文化共生を促進する立場としてあまり負の側面を強調しないようにしている。本当は秘めた可能性に目を向けたい。しかし可能性を開花させるためには、個人に於いても社会に於いてもそれなりの努力の投入が必要だ。

現に彼らは先述の通り可能性をもった存在でもあるのだ。言語能力を活かし日本とブラジルの間のビジネスに大きく貢献できるはずだし、そういう分野で努力している日系在日ブラジル人も既にたくさんいる。だから問題が小さいうちに、年齢が若いウチに上手く方向修正し、彼らがその可能性を開花させ日本の社会の中で能力を発揮し、日本人だけの社会では達成できない成果を確立して欲しいと望んでいる。
在日の外国籍の人たちがこの国を第二の祖国と思い彼らの成功と共に日本に成果をもたらしてくれる存在になってくれたら日本は世界的分野に於いて大きく飛躍することが出来るはずだ。
明治維新以来日本を悩ませているのは日本が国際社会との間にもつ様々な認識の解離だからである。ワールドスタンダードを習得できずにいるガラパゴス。第二次大戦において日本が直面した状況の原因はこのことと全く無縁ではない。この問題は今だ完全に解決されていない。
日本人は世界に出なきゃならない。でも世界を知って帰ってきた日系人が日本に戻ってきている。だとするならば、彼らを通じて我々は多くのことを学ぶことすら出来るはずである。

私は「可哀想な在日外国人達を支援してあげなければならない」とは思っていない。
生まれが何処であろうが国籍が現在何処にあろうとも、現時点に於いて日本の社会を構成している一員であることには代わりはない。その一員が日本の社会に問題をもたらすようなら是正せねばならず、そこに解決すべき課題があれば改善せねばならず、またそこに見出すべき可能性があるのなら最大限活用すべきだという至って単純な考えだ。これは他の「日本人」の集団にも等しく言えること。「農業従事者」という集団に対する政策であったり、あるいは今回の「震災被害者」という集団であったり。

ましてや人口減少が問題になっている今、日本に住みたいと思う人たちは彼らの経済活動の結果(経済に限らずとも)副次的に日本社会全体に貢献をもたらす限りドンドン移民を増やすべきである。もっと言えば労働移民よりも在日留学生を増やして日本での就職を確立させるべきだ。ある特定の国のある特定の思惑を持ったある特定の集団のケースを除いて。

北欧で先日保守的原理主義者による無差別銃撃があった。
無策のまま移民を増やすと日本でも同様の反発を生み出す。銃撃という形で現れなかったとしても。
マジョリティの側が移民が母国を成長させる可能性であることを認識する必要があり、国は単純労働者だけの移民の受け入れをやめる必要があり、移民は寄留地としての認識ではなく骨を埋める土地であることを認識し社会を構成する一員として、自らの未来と子供達の未来が作られる社会に対する責任を認識する必要がある、また周り戻ってマジョリティ側も彼らが寄留地だと思わないように受け入れてやる懐の深さを持っている必要がある。

強と弱の対立構造で成り立ってきた西洋社会ではなく、「和」を尊ぶ日本であるからこそ、他国出来なかった、過去にどの社会でも到達し得なかった「真の共生」が日本でなら形成できるはずだと、母国に対する期待を持っている。
そして我が祖国が「経済大国」から脱皮して世界を導ける指導的責任を担える「先進国」に成熟できる秘策がここにあると思っている。そのために国内にまず「和」を構築しなきゃならない。

コメント

  1. 「和」を尊ぶ日本。それだからこそ我々は成熟を目指す(しかない)。その日本が世界の手本となり「真の共生」のために、まずは、国内から「和」を構築するのは最重要課題だと思う。

    具体的に何をするべきかを論ずることが大事だと思う。大きなスローガンを掲げるでけでは、なんにも進まないし、その目標を達成するには個々の具体的な小さな目標を立てていく必要があるよね。しかし、ここで大きな問題がある!その問題とは、我々は、まだ、その具体的な策まで議論するほど社会的に成熟していないというのが問題だよね。

    在日への差別やネット空間に多く見られる右翼的な人たちの発言!などが、我々の社会の成熟度の低さを物語っているよね。これらの問題を上手に処理しながらでないと「和」を構築するための具体策を練ることは難しいだろうね。

    もうひとつ、「和」を尊ぶと言っても今までの日本的排他的な共同体から脱却を目指さなくてはならないと思う。今までの「仲間以外はみんな風景」的な「和」のありかたでは駄目だよね。自分の所属する団体だけ良ければいいという考え方を改めなくてはならないと思う。要するに自分の利権が守れればOKみたいな人間であってはならない!その振舞いを止めることが出来るか出来ないかが大きな鍵なんだとと思う。

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  2. 具体的ってのは難しい話で、実際地道な作業しか無いと思うんだよね。
    鍵は相互信頼の構築。だから日本人とそうでない人たちが出来るだけ時間を共有して、相互に持っている誤解を少しずつ払拭していくこと。極力排他的extremestは関わらないこと。その辺は外堀を埋めながら少しずつアプローチするしかない。

    ただ、2世の学力向上の問題は即行動可能な対処法がある。小中幼に多言語話者の「教員」を導入すること。
    現在津市の中学校では週1の巡回員が回ってくる程度。採用も取りあえずポルトガル語などが話が出来ることが条件で、教員としての「意識」は必ずしも問われていない。加えて臨時職員だから職務に専念することも難しいし、投入することが難しい。

    津市は集住年の一つとして国への増員と採用基準の改善を要望として提出しているけども今のところ聞き入れられていないらしい。

    市での独自の対応が何処まで出来るのかはちょっと調べようと思ってる。

    排他的共同体意識ってのはよく言い当ててると思う。グループ内のなれ合いは巧みだけどいったんグループ外になると極端に冷淡になる傾向は、ここ三重の田舎には結構色濃く残ってるケースが実在する。

    ただそれでも相手の状況を思ったり察したりという事は根本的に持っている文化だから、狭い仲間の枠組みをどれだけ広くできるか、言い換えれば同じ地域に住む運命共同体なんだという認識が出来れば良いんだけど。
    ま、いずれにせよ言うは安しでね。
    繰り返すけど地道な積み上げしかないと思う。

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