2010年10月28日木曜日

和・神道

幾らか前に古神道の神主さんとご一緒させていただいて色々お話しを聞かせていただいた機会があった。

明治時代に神道を国家宗教にしようとした人たちが仏教やキリスト教のように神道を体系化して聖典を作って”整えよう”とした試みがあったそうで、各地の信仰を集約して調査してみたら、あまりにも多種多様で結局の所一つの書物にまとめることが出来なかったのだそうだ。
だから神道には日本の神道全てをまとめることの出来る聖典が存在しない。とのこと。

それから我々が今よく目にする神道の体系は随分仏教からの影響を受けて変化をした物のようらしい。もちろん古神道の方から聞いた話だから余計にそう強調されたのかもしれないが相互に色々影響を与えてきてできあがったのが今の神道や日本仏教なんだそうだ。

ちなみに先祖崇拝はそもそも神道の考え方で仏教の考え方ではないそうだ。
あと神社という代物は仏教の影響を受けた物らしい。その方曰く神道の神様はそもそもどこか一所に留まっている物ではないらしい。神社の中に神様の居られるところがあってそこに向かって拝むのを鎮座式というのだそうだ。つまりその建物の一角に鎮座しておられるわけだ。
ところが地鎮祭を考えてみて欲しい。地を清める作業として信じようが信じまいが何か建物を建てるとなると大凡何処でもやるような風習になっている行事だけども。あれは地を清める神様に天から降りてきてもらって、地を清めてもらった上で、天にかえってもらうんだそうだ。同様に古い神道の儀式は行く所々で神様をおろして、なんだかんだ意図する儀式をやって、つまり雨乞いだったり豊作祈願だったりするんだろうか、でかえってもらう。これらは建物の中に鎮座していない、天にいて降りてきてもらう神道の元々本来ある神様の姿なんだそうだ。

で、それだけ色々仏教や道教なんかの影響を受けた神道の文化の中で、また種々あって一つにまとめることが出来なかったという神道考え方の、そもそも皆に共通して克つ外来の物からの影響を完全に排除した、中核、神髄は何ですか?と尋ねたところ、

だと答えられた。
自然との共生、和、が神道の根幹なんだそうだ。


西洋では、自然とは人が管理しコントロールする物で自然災害や他自然との関わりで出てくる問題は人間が知恵を絞って最終的に”乗り越え、解決していく”物であるのに対し、日本人にとって自然とは共に生きていく物、各々折り合いをつけて、和していく物なんだとか。

言われるとよくわかる。日本の土着の宗教であるが故に、価値観や考え方を含めて日本人を形成してきた文化の基礎に位置するのが神道な訳で、いやおう無しに我々の価値観の中に植え付けられて我々の考え方に深く影響を与えていると思うのだが、その神道の中核にあるのが自然との調和なんだそうだ。

だから神主先生曰く日本人こそが環境問題の先頭を切っていかなければならない問題なんだとおっしゃってた。

多文化で無くって自然との”共生”なんでここの趣旨とは微妙にずれるんだけど、ちょっと思うところあって書き留めてみた。

初めから和をなそうとしていない相手と和を作ることは不可能なんじゃないか?と思わなくもないんだけど、いずれにせよ我々自身の思考回路の癖を知るためには有用な情報の一つではあると思った。
また自己のアイデンティティーとして我々日本人がが誇るべき物は本来なんなのか、と自問したときにやっぱり和を尊ぶ文化なのかな?とも思うわけ。

2010年10月25日月曜日

2010津市国際交流デー・出店ブース

有料ブース

ブラジル:コロッケ・パイ・ソーセージ等
ボリビア:パイ・ジュース・パンケーキ等
中国:水餃子・中国えびせんなど
韓国:チジミ・キムチ・ジュースなど
フィリピン:フィリピン料理
モロッコ:モロッコ料理
コンゴ:コンゴのアクセサリー
モルドバ:トールペイント
ペルー:ペルーのお菓子
日本:綿菓子など

情報・アトラクション・無料ブース

ホームステイ・イン津:着物の着付け・ホームステイ情報
津消防:防災情報・地震体験
計量協会:キャンディー重さ当てクイズ
津警察:防犯啓発・パトカー白バイ展示
マジックバルーン:作ってみよう!マジックバルーン
三重県国際交流室:多文化共生・防災啓発
ウォールクライミング:ウォールクライミング体験

ステージアトラクション・無料
アポーヨミエ:ブラジル人学校の子供達のダンス
アイリッシュダンス
つ音頭
ボリビア民族ダンス

2010年10月21日木曜日

2010津市国際交流デー・アップデート

10/14日、津市お城西公園で行われる国際交流デーのスケジュール(案)が上がってきたので上げます。ほぼこんな感じで進んで大きな変更はないと思います。

11:00オープニング
  各代表者挨拶
11:30ステージアトラクション
1. Sun band 演奏
2. Peru Artesania 演奏
12:00屋台ブース案内
13:00ステージアトラクション
3. ボリビア民族ダンス
4. 盆踊り
13:45屋台ブース案内
14:00地震体験車来場
14:15ステージアトラクション
5. フェスタジュニナ
6. タイ留学生ダンス
7. イスラエル人・ギター演奏
8. アポーヨみえ歌と踊り
15:45閉会

皆さん遊びに来てください。
今回はゆっくり時間が過ごせるように食べるだけのブースだけでなく、文化紹介をやったり体験できるようなブースを増やしたようです。

2010年10月20日水曜日

共生・主張

今朝ドイツの首相が他文化社会はうまくいかなかったという発言をして物議を醸し出しているという記事を読みました。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/europe/453179/
他にもヨーロッパの各国で外国人に対する排斥感情が盛り上がっているというニュースをいくつか見ました。

改めて容易な問題ではないと感じました。"外から来た人"という感覚はなかなかぬぐい去れない。ここは我々の土地だ。という感覚もよくわかるし、これをどうこうするのも難しいです。また文化が浸食される、我々の国が無くなってしまうのでは無いか?というある種の恐怖ですね。もちろん社会福祉制度や就労の問題も含めて、自分が受けるべき権利を奪われているという生活に直結した摩擦も、これをよりややこしくしてるように思います。

だからこそ共通目標が必要だと常に思うんです。お互いが同じ方向を向いているんだという認識、そこから生まれる信頼。そしてお互いにそれぞれの持っている物を浸食しない阻害しないという事。つまり尊重するというマナーとでも言うのか。その上で我々が共に我々がお互いに心地よいと思える社会を作るんだという感覚が必要だと思うんです。だから外国人には常に、この地を寄留地と思わないで、自分の未来がある土地、自分の子供達が生きていく土地なんだと思ってほしいと訴えています。

日本の事だけ言えば、経済的に外国人労働者を必要としている側面があります。日本のバブル期の経済を復活させるためには1000万人規模で外国人の移民を受け入れるべきだという試算があったように記憶しています。あくまでも記憶なんで数字は不確かですが。労働者だけでなく日本に学びに来た留学生達、つまり言語にも長けた優秀な外国人はなおのこと日本に定住できるようサポートすべきだと思っています。彼らは間違いなく彼らの国と我々の国との間のパイプとしていろいろな分野で活躍してくれる事でしょうし、また本人達もよくそのような事を希望する発言をよく耳にします。つまり外国人を受け入れる事は日本側にとってもメリットがある事なはずなわけです。そういった大枠での事情と実際に隣り合わせですむ事になる住民との感情がマッチしてない。状況ですね。仮に外国人がここに住みたいと思っても受け入れ側にその懐がなければこれもまた成立しないわけです。

大局的に見れば。地球自体がそもそも多文化共生社会であるわけで、遅かれ早かれ我々が共生するノウハウを構築していかなければならないのは火を見るより明らかだと思うんです。
つい先日スペイン人でUNESCOの大学で教鞭を執っている方の話を聞きました。その方の話を引用すると、我々の地球は一つで人類は他に存在しない。我々には共生を模索していく以外に選択肢は他に無いんだと強調していました。激しく共感です。

"共生"これは技能だと思うんです。skillです。社会の構成員達がそれぞれ身につけていかなければならない。それを養っていく必要があるんだと思うんです。
そして共生していく事のできる文化を構築する事が何よりも日本が平和を”作っていける”技能"を持った先進国たり得るのでは?と思うわけです。文言じゃなくって実践を持ってね。現時点でそんな能力を持ち合わせた文化はどこにも存在していないわけですから。


随分前置きが長くなりましたが、自分の主張ははっきりすべきだと思うんです。私は家内が外国人ですから日々共生を余儀なくされているわけですが、双方共に第二言語を使ってコミュニケーションをとっています。つまり誤解、聞き違い、思い違いなんてのは当たり前のようにしょっちゅう発生するわけで、放っておくと後に大きなトラブルになります。だからできるだけ必要な事は明確に明瞭にしなければなりません。お互いにいろいろな事を話し合う事は最低限必要な事、日本人の間にある”察してください”という事は実際機能しないんですよね。"言わなくてもわかるでしょ?"は言わなきゃわからないんです。それをしないとどんどんすれ違ってしまう。

韓国人の奥さんを持つ人に聞いた話ですが、日本人の相手を傷つけないように物事を明確にしない言い方は、韓国人にとっては信頼できない人だと写るそうです。はっきり自分の思っている事を言わないから。

各国で教鞭を執っている早稲田の経済学部の教授が、彼がアメリが留学中に授業の討論の才に日本に落とした原爆の事を題材にして話し合い、いろいろ議論が飛び交った後に教授から質問をされたそうです。”林君どうおもう?”って。彼は真珠湾攻撃に至る経緯から始まって当時の世界背景を含めて開戦の理由が一方的な日本の非ではない事、加えて終戦直前の日本の状況を説明し、日本を敗戦に追い込むために二つの原爆投下の必要は全くなかった事。そして後の冷戦時代において核の抑止力を最大限に引き出すためのデモンストレーションとしての投下の意味合いを主張したそうです。結果"we agree to disagree."と言われたそうです。しかし翌日から周りの学生からしっかり一目置かれ他の学生との関係が一段良くなったそうです。自分を持っていない人は軽んじられる社会です。その分しっかりした主張を展開できる人はそれに値する尊厳を受ける社会です。そんな土壌があの国にはあります。

これはあくまでも私の知る限りの凡例で、他の国の人達はまた違った反応をすると思います。だから実際手探りで作り上げて行かなきゃならないと思うんですね。決して相手を傷つけてはいけないと思うし、相手の国を非難するような発言は差し控えるべきです。これは対人関係でも同じ事だと思います。中傷はいけない。でも主張はしっかりすべき。その上でトラブルがあっても途中で投げないでちゃんと解決していく。その個々の蓄積が全体として共生文化を育てていくと思います。遠巻きにしてあーだこーだ言ってたって駄目だし、役所に押しつけたって駄目。できるだけ多くの人ができるだけたくさんの接触の機会を持って生で超えていく物だと思うんです。だから掃除なんですけどね。
共通目標を設置してお互いが目標のために相互に関わっていく。その三角形から生み出されてくる結果をあわせて四辺がそろって初めて丸く行くのかな。と。


自国に対する自負心に関してはまた改めて。

2010年10月19日火曜日

和・日本の文化

この題材で書こうと思ってから随分立つんだけど、どうしても書き出すと多岐にわたって収拾がつかなくなりそうで書き出せずにいた。

加えて数日前に人待ちの際にiphoneで書き始めて、かなり書き殴った後に見事に消えて無くなった。
ま、そんなことはどうでも良いことで。

外国人との共生とか、外国人の定住と移民の増加を積極的に促進すべきだなんて言うと、必ず出会うのが、ここは日本で日本の文化があるそれを犯すなという考え方に衝突する。またグローバリゼイションが語られて久しく、国際社会においての日本の国際性の欠如によって噴出した種々の問題が切っ掛けで日本人の考え方に対する問題に焦点が当てられたときに、世界の常識は日本の非常識なんていわれてね。ところが日本人らしさとか日本の文化という事が絡まってきて、それが日本の美徳だから否定すべきでないというカンターアーギュメントに出くわす。

果たしてそれでは何を持って日本人となすのか。何が日本独特の文化なのか。突き詰めてみると随分いろいろな物が日本の文化でないような気がする。

演歌は日本の文化でしょうか?武士道は日本の精神でしょうか?盆踊りは?歌舞伎は?能は?短歌は?仏教は?神道は?日本語は?

国籍とか民族とかって結構ボーダーラインって曖昧で、むしろそういったアイデンティティって幻想である場合が多かったり。
何処に日本人らしさってのがあるのかなと考えたときに

ふとしたことから"和"だろうか?と感じさせる内容を伺った。

その和が故に自己主張が少ないように見られたり、いろいろな問題で後手に回ったり、はたまた近年の経済発展があったり、環境問題に熱心になったり。ひらがなの創出もやはり和に根源があるのかもしれない。

大和とかいてヤマトとよぶ古称をもつこの国。

しかしながらその和が故にもしかしたら西洋式パワーバランスによって推し進められてきた歴史を変えうるのでは?とも思う。つまり力と対立と闘争の歴史を。

共生という事を実現しようと思うときに、どうしても柔和さというのは重要になってくる。ただそれだけでは共生にはならない。お互いが我慢してるだけ。それだけではいつかは爆発する。(よだんだがこれって良く日本人が起こす現象でもある。)本当に共生していくためには共通する目標、未来が見える必要がある。しかし共通目標を相互に認識する為には、お互いが運命共同体であるという感覚に到達する為には、その切っ掛けとして柔和さがあることが土台を作ってくれるとも思う。懐を深くすることが出来るから。だからその和があるこの国だからこそ、他ではおおよそうまくいったことのない共生が実現しうる可能性を秘めてるのでは無いかとおもっている。

和を土壌にして対話を育て相互信頼と相互協力の花をつけたら"我々は一つである"という実を結ぶかもしれない。